あの日の風景、明日の風景。

 Googleストリートビューで遊んでみた。

 行き先は、昔かよっていた小学校の帰り道だ。



 小学校の夏休み前、たくさん家に持ち帰る物があった。まぁ日本人なら多分記憶にあるだろう。朝顔のプランターなんて代表格だ。苦労して持ち帰った記憶があるはずだ。

 僕の通っていた小学校では、教室の後ろの棚に1人1つずつ、洗い物カゴのような水色のプラスチックカゴを入れていた。ちょうどランドセルが入って少し余裕のあるサイズ、水色のプラスチック製だった。その中に絵の具も、書道の道具も、鍵盤ハーモニカもリコーダーも体操着も全て入れることになっていた。
 そのカゴの中身も持ち帰りの対象だった。賢く少しずつ分散させて持って帰る。もう少しで夏休み。暑さに負けず、閑散とした田舎の駅前を歩く。
 一学期最終日には少し中身が残ったカゴを、がんばって持ったり抱えたり頭の上に乗っけたりして歩いたのだった。小学生には少し手に余る大きさのカゴだった。

 ストリートビューで僕が一番最初に見たかった風景は、カゴを頭に乗っけて歩いた帰り道だった。おぼろげに覚えている。カゴを持つ手を変える時に見上げると青空が広がっていた、駐車場と畑の間の抜け道を。夏休みのために一生懸命荷物を持ち帰った、コープと駅と畑と団地のある道路を。



 結論から言おう。ストリートビューではその風景は見えなかった。

 小学生の歩く道は、結局のところ抜け道ばかりだ。私道だったり駐車場だったり公園を横切ったりと。
 小学生しか通れないあの帰り道は、車にカメラを乗っけた大人たちは通れないのだった。

 今、僕はかろうじて都民だ。小学生の時住んでいた土地は遠い。画面越し、久しぶりに見た故郷は綺麗な住宅街が建設されて、保育園と老人ホームが新設され、駅の前の道は新しくなっていた。
 あの下校風景は、もう二度と見れない。 


 人はアナログな体験の中で育っていく。デジタルなITはさまざまなものを教えてくれるが、あの日あの時あの風景あの体験は、二度と見られないし、検索に引っかからないし、再現されない。そんな当たり前を再認識させられた。

 そう思えば、ちょっとは大切に生きていけそうだ。




 余談。
 もしかして、今の子供たちはそんなことないのかもしれない。
 彼らが小学校から帰っている道が撮られたこの写真が、将来Googleから公開されたとしたら、彼らは下校風景をもう一度見ることができる。
 すっげぇ時代だ。

 でも僕は、Googleが情報収集を始める前に生まれたことを嬉しく思う。心の中だけにある風景があるってすごく素敵なんじゃないか。
 まぁ、この脳内風景も後から脳が捏造した気もするけれど。それもまた一興。



 もうひとつ余談。
 ストリートビューのカメラは視点が高い。大人の視点も高い。
 子供の視点で見る風景は、高さも心象も、今の大人たちには撮らえられていない。
 そういう記録されていない領域があるのは、とてもいいことだ。

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